母子像東京大空襲・戦災資料センター

来館された方の感想ノートから

センター2階に置かれている「感想ノート」には、多くの方が感想を記入されています。当センターでは、すべて記録し保存していますが、今回は初めて訪れた被災者の方々の想いを中心に掲載させていただきました。(09年7月に発行された『戦災資料センターニュース No.15』より転載)。


語りつぐ決意新たに

は5歳の時、横浜で空襲を体験しました。東北に疎開、おしんがお姫さまのようにみえる、そういう苦しい生活をしました。道端の雑草など食べて命をつなぎました。よく68年生きられたと親に感謝しています。若い方々の戦災樹木展を見て、若い人たちがすばらしく育っているなーとうれしく思いました。[台東区(68歳・男性)]

日は、神戸の震災から14年目。地震を経験した者としては、多少なりとも東京大空襲のことは想像できた。しかし、火のすごさが相当違うことには驚かされた。地震の体験話をしても、聞いている人は「へぇーそうなんや」と「すごいなぁ」「恐ろしかったやろ」という感想しか言わない。体験・経験したことのない人にはわからないことだらけである。が、知らないより、知っていた方がよい。私も、まわりの人に話をしよう。できる限り多くの人に。[三重県 T.Y.さん(男性)]

何なる理由があれど、戦争は許せない。私は79歳で空襲も艦砲射撃も経験しているので戦争の悲惨さは身にしみているが、知らない人達がこれから増えていく時、誰がどの様にして後世に伝えていくのか、当所の様な施設は貴重な存在であります。[S.K.さん(男性)]

争を知らない子どもと孫がこちらに寄って、私に行って見てきてと。私はすぐ主人と見にきましたが、あまりのすごさにびっくり。これからは、戦争をなくすことに運動を進めて行きたい。[Sさん(女性)]

日、私は小学3年生と年長の子供を連れてきました。戦争が風化してゆく気がして、こういう場所があって、大変よかったと思いました。今ある日本は、義務教育でも近代史をもっと取り扱って欲しいものです。[Nさん]

日此処を訪問出来たこと、感謝します。[深川平井町罹災 W.T.さん(76歳)]

人が向島で空襲に遭って(17歳)、家族はその日、お産をした母と赤ちゃんを大八車に乗せ、主人は背中に3歳の弟をおんぶして、6歳の弟の手を引き逃げました。ここがわが家の原点だ、と77歳になってバスをチャーターし、一族そろって参りました。命の尊さを人間の強さを感じて欲しいので。[無記名]

日はビキニデー。第5福竜丸をみてからきました。北区ですが、おじぞうさんがたくさんあります。空襲で亡くなった方が多い地域だったので。庭園ににげようとしたら、天皇の土地だからと、門番がいれてくれなかった話がありました。[無記名]

年もまたこの季節が巡ってきたか…と。首都圏に雪が舞った日、あるお宅の庭先に沈丁花が微かに芳香を漂わせていて、また3月10日が近いことを感じた次第です。なお、昨年お邪魔の折、センター玄関で偶然にも従兄に会い、従兄の母親の兄にあたる人物が1945年3月10日の東京大空襲で命を落としていることを知りました。[千葉県 N.Y.さん(女性)]

市南部9条の会の仲間達8名で来館。私は当時国民学校5年生で、埼玉県飯能でその夜のすさまじさ。空が真っ赤に染まっていたこと、その後空襲にあわれた方がボロボロの衣服で流されてきたことを想い出します。[Mさん]

の妻は昭和19年に生まれ、彼女の父親は3月10日の大空襲に被災し、死亡しました。最近東京大空襲の写集を見て妻と二人で当センターに来ました。[港区 Oさん(男性)]

が石川島播磨造船所に徴用で勤めており、母と私が、母の長兄の娘を連れて春日部に疎開をしていました。その伯母と父は3月10日の空襲に遭い、どこで死んだか分からずじまいです。写真を見て、まっ黒になって炭になっている死体が父かもしれないと思うと、その瞬間父が何を思っていたか。当時寿町に住んでご存命の方がいたら、生前どんな父だったのか、父を知らず育った娘は知りたい想いが沢山あります。[父の名前:谷野忠雄(享年29歳) O.A.(旧姓 谷野)さん]

本橋本石町で昭和19年に空襲に遭い、家が焼失しました。父母と長兄と末弟の私は近くの常磐小学校の防空壕に逃げて命はとりとめました。又、来ます。[杉並区 S.T.さん(男性)]

日は5名で念願だった当館へ来ました。日本橋で4歳だった人は何月の空襲だったのか資料を、館の人の解説から調べ、11月ということまでわかった様です。自分の空襲体験が一つ一つ解明されることも本当に大切だという思いが深まります。[杉並和田堀9条の会 Y.K.さん]

和20年5月20日の東京大空襲の中を逃げました。四谷駅前の消防署に逃げ込み、命を永らえました。母たちと離れ、朝まで泣いていました。幸い朝、母達と逢え、家のあった麹町へ戻る時、焼け跡の彼方に警視庁しか残っていませんでした。[江東区 Tさん]

は昭和20年3月10日、東京大空襲で父を亡くしました。私は国民学校1年生で母の実家へ姉、弟、妹と疎開しており助かりましたが、父一人東京本所区緑町1-26で亡くなりました。母一人で幼い子供4人を育ててくれました。今日あるのは母のおかげです。子供心に父をうばった戦争がにくい・・・。[S.Y.さん(男性)]

64年振りに目にした記録のすさまじさはあの17歳の3月10日をまざまざと思い出させました。孫も話しを聞きたがります。ただ思いだけでなく、正確さも必要かと思い切って訪れ多くのことを学びました。[秋田県 N.K.さん(女性)]

がいたくなりました。世界を変えてみせる。Yes, we can.[K.S.さん(男性)/K.K.さん(男性)]

時、私は亀戸5丁目に住んでいました。母は、1歳半の私を背負い、おなかに7ヶ月目の妹を、そして両手に姉と兄を連れて、日立の工場に逃げました。母が何かにつけて話してくれたので、自分もそこで経験したように目に浮かんできます。千葉街道の亀戸駅のガードをくぐるたびに、兄が「このシミは人間の油なのだ」と話すのがこわくて、耳をふさいでいました。この地図を見て、胸が苦しくなりました。今65歳の私、このことを忘れず、伝えていこうという気持ちが大きくふくらみました。[無記名]

こへ来て、戦争の重みを知る事が出来た。[葵中学校 男子]

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